Column

自分に集中できる聖域が、都市にあってもいい

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ワイガヤコミュなシェアオフィスへの違和感

ワイワイ・ガヤガヤしたコミュティ推しのシェアオフィスじゃなくて、もっと自分の為の働く環境があってもいいんじゃないか。何なら、仕事じゃなくて、勉強や趣味に使ってもいいじゃないか。小さい空間こそ。

コロナ禍以前から、ずっとどこかでそう思っていた。
何か話さないといけないようなパリピ的な環境が苦手だからというのもあるが、それはきっと私に限らないだろう。コワーキングスペースもドロップインで何度か利用したことがあるが、結局作業的なもの以外は難しかった。じっくり考える時間に、どこかで気分転換したいところだが、スタバは混んでるか行ってみないと分からないし、うるさいかどうかわからない所に行く時間がリスクだ。家でやればいいじゃないかと言われそうだが、家は家族がいて仕事モードになり切れないし、会社だと他の人が気になるし声もかけられる。ひとり暮らしだとしても、ワンルームでベッドが横にあっては誘惑に負けてしまう。

特に、クリエイティブな仕事をしている人は、他人とコミュニケーションをとる時間も大切だが、それ以上に自分が集中してアイディアを練る時間を大切にしていたりする

京都でも、2010年代にシェアオフィスが増え始めた。随一のオフィス街、四条烏丸~烏丸御池付近には現在、20施設ほどのシェアオフィス・コワーキングスペースがある。京都は東京のようにビジネスエリアが点在しているわけではなくギュッとしているので、大手の支店の多くはここに集中している。他に倣い私にも、不動産オーナーから、シェアオフィスを作って欲しいという依頼があった。このオフィス激戦区に。

住宅内で難しいなら、都市内で解決する

ワイガヤコミュなシェアオフィスにこれまでさほど興味はなかったのだが、せっかく作るなら、自分がこれまでふつふつと描いてきた仕事環境に対する課題と向き合い、かつ自分だったら絶対に使いたい、というものを作りたい。住宅産業に関わる企業が、自社ビル内に持て余していた空間だった。

社長に初回プレゼンをした直後、ちょうどコロナショックが起きた。話題となった「アフターコロナの住まい予想図」の記事にも書いたが、改めて仕事環境の在り方について考え直す契機となった

コロナ禍が進むにつれ、国が推奨した事もあり、都市部を中心にテレワークが進んだ。家で仕事して良いなんて、一見夢のように嬉しいように思う。ただ現実はそうでもなく、日本では、他国と比べ、「テレワークではオフィスほど仕事がはかどらない」という調査結果も出ている。
前述のように、家族暮らしにとっても、単身ワンルーム住みにとっても、家で仕事するのは切り替えが難しい

そもそも、すべてが住宅内で解決できるわけがない。コロナ禍が落ち着いた後の社会でも、リモートワークはある程度維持されるだろうと予測されるが、子どものいる家庭での仕事環境は、部屋数の限られた家の中だけでは解決が難しい。そこで、この課題を都市内をひとくくりとして解決してはどうか、それが今回のシェアオフィスで担えたらと考えた。
この京都随一のオフィス街は、オフィス街でもあるがマンションが立ち並ぶ住宅地でもあったのだ。このシェアオフィスは、決してオフィスの提案ではなく、暮らし方の提案である。クライアントが住宅産業に関わってきた企業だったからこそ、この視点をもって一緒に作ってみたかったという想いもあった。住宅の課題を都市ぐるみで解決できるなら、未来に希望が持てる。

現代の市中の山居

そこで、考えたコンセプトが「現代の市中の山居」。「市中の山居」とは茶の湯の用語で、都会(市中)の中にある草庵(山居)という意味があり、室町時代の千利休の時代以前からあった言葉と言われている(語源には諸説あり)。
そこで私たちは、都市の喧騒の中で精神を整えるという茶室に見立て、籠ってグッと集中できる拠り所を都市に作った。

ここだけはグッと集中できる場所

茶の世界には、“市中の山居”という言葉があります。
当時の町衆は、商いと住まいの日常に、
非日常の茶室をつくることで、 心身の環境を整えていました。
気持ちがあがり、グッと内へ向くことのできる場所。
都市の喧騒の中にある静寂な空間は、
今を生きる我々にとっても、必要だと考えます。
そこで、現代人のために市中の山居をしつらえました。

心静かに集中する場所という意味で、この場所を「閑居(かんきょ)」と名付けた。

これから求められるのは、”自分に向き合う環境”

改めて必要とされている仕事環境を考えたとき、それは、自分に集中できる居場所なんじゃないか、という答えに辿り着いた。
東日本大震災以降の地域コミュニティの強要、SNSを筆頭に他人と繋がる・他人に評価されることに、私たちはそろそろ疲れたと言っていいのではないだろうか。もっとみんな、自分と向き合う時間を大事にできたら、心が豊かになると思う。
読書は、作者と自分との対話で、他者に邪魔されない世界観が心地良い時間を生む。映画も、映画館という空間は共有していても、スクリーンと自分の対話だ。少しかじった程度の私が言うのもなんだが、茶の湯の魅力も、自分と向き合うことにある。

他と繋がる代表のシェア型施設を長年企画運営してきて最近思うのだが、シェアの魅力も、本当は自分と向き合えることにあると思う。金銭的・合理的な利点以外に、他者と共有することで他者を知り、他者と向き合うことで、自分がこんな人だったのかと知り、自分と向き合える。先日シェアハウスを退去した子が、シェアハウスから町家セカンドハウスに住み替えたのだが、退去時にそのようなことを話してくれて、やっぱりと納得した。
寺育ちの夫に言わすと、仏教では当たり前の概念のようだ。

繋がり社会の現代だからこそ、自分と向き合う時間を大事にしたい。自戒を込めて。

自分に集中できる聖域が、都市にあってもいい

シェアオフィスとしては、コンセプトだけ良いことを言っていても意味が無いので、設計上、徹底的に集中できるような工夫をしている。

たとえば、ひとり席でも個別空調を配し、各室で温度調節が可能だ。また、音漏れも防ぎ、部屋は密閉された空間で、デスク周りには吸音材を採用している。本気の資格試験や、社会人学生の論文など、大人の自習室としてもオススメだ。

デザインも、茶室=和という安易な発想ではなく、茶室空間がつくる茶室の要素をデザインコードに用いている。たとえば、茶室の床柱や下地窓に見られる、下地をそのまま現す方法を採用し、ラウンジの天井は、野縁や木毛セメント材という下地をあえて見せている。

座った目線で素材が切り替わる茶室の壁に倣い、閑居の壁面も、色の切り替えで境界を与えている。

都市の喧騒から非日常の山居へ、意識を切り替えるようなシークエンスの変化を作りたかった。そこで、明暗をしっかりつけ、外部(明)→エントランス(暗)→廊下(暗)→ラウンジ(明)→外土間(明)と変化を持たせたのも、面白い魅力だ。

エントランス・廊下の「暗」から、ラウンジの「明」へ

都市とはそもそも、ひとり単位が生きやすいこと、それが集合したものだと私は思っている。
仕事でも、個人的な勉強でも、趣味の場でも。ここだけでは誰にも邪魔されないぞという、自分に集中できる聖域のような場所が都市の中にあってもいいし、それが認められる、拠り所となって生活できるような社会はきっと優しいのではないだろうか。

*この記事は、2021年10月の記事を転送しています。

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