女優の遠野なぎこさんといえば、NHK朝ドラ『すずらん』のヒロインとして一躍注目を集めた人物です。
しかし、その華やかな芸能活動の裏には、想像を絶する壮絶な生い立ちが隠されていました。
幼少期から続く母親からの激しい虐待、父親による暴力、そして家族全員との絶縁状態など、一人の人間が背負うには重すぎる試練を乗り越えてきたのです。
そこで今回の記事は、
こちらの内容でまとめていきます。
【闇深】遠野なぎこの壮絶な生い立ちエピソード13選!

その中でも特に衝撃的な13のエピソードをご紹介します。
①青いバケツで鼻血を受けさせられる

母親から激しい暴力を受けて鼻血が出ると、決まって青いバケツを足元に投げつけられていました。
「毎回ティッシュを1箱使うので『もったいない』と言われて、だからバケツに鼻血や涙を溜めて、止まったらそれを流す」という、常識では考えられない異常な光景が日常的に繰り返されていたのです。
幼い遠野なぎこさんは、殴られて痛みと恐怖で泣きながら、同時に流れ出る鼻血をバケツで受けなければならない状況に置かれていました。
血と涙でいっぱいになったバケツを見つめながら、なぜ自分だけがこんな目に遭うのかわからない絶望感を味わっていたのです。

この青いバケツは、遠野なぎこさんにとって虐待体験の象徴として深く記憶に刻まれており、大人になった今でも青いバケツを見ると当時の恐怖が蘇ると語っています。
母親の「もったいない」という言葉から、娘の痛みや恐怖よりも経済性を優先する冷酷さにさらに恐怖を感じますね…。
②真っ暗なトイレに閉じ込められる恐怖

母親は遠野なぎこさんをトイレに押し込むと、外側の電気スイッチを切って真っ暗闇にし、ドアの外で自分の体重をかけて押さえつけるという残酷な行為を繰り返していたのです。
「一瞬で、真っ暗闇に包まれる。 何にも見えない恐ろしさ。 子供だからさ…あの恐怖心っていったらないのよ」と当時を振り返る遠野なぎこさん。
どれだけ泣き叫んでも、ドアを叩いても、母親は決して開けてくれなかったそうです。
体重をかけて扉を押さえつけているため、子供の力では絶対に出ることができない状況。

遠野なぎこさんは恐怖で泣き疲れて眠ってしまい、起きた時には母親は夜遊びに出かけていて、ようやくトイレから出られるという状況が何度も繰り返されました。
この閉じ込め体験は、遠野なぎこさんに深刻な閉所恐怖症を植え付け、大人になった現在でも狭い空間や暗闇に対する強い恐怖感を抱えています。
母親が夜遊びに出かけるための時間稼ぎとして、我が子を恐怖のどん底に突き落とすという行為の残酷さは、想像を絶するものがあります。
③「アキミ病」という母親が作った病名

不安定になって声が出なくなったり、返事ができなくなったりすると、母親は「またアキミ病が出た」と冷たく舌打ちしていました。
「アキミ」は遠野なぎこさんの本名で、母親が勝手に作り出した病名です。
この舌打ちが出ると、それを合図に暴力と閉じ込めが始まる恐怖のサインだったのです。
幼い遠野なぎこさんは、家庭環境のストレスから精神的に不安定になり、時として声が出なくなったり、母親の質問に答えられなくなったりしていました。

しかし母親は、娘の心の叫びを理解しようとするどころか、「病気」として片付けることで自分の責任を回避していたのです。
通常であれば、子供が不安定になった時には抱きしめて安心させるのが親の役割ですが、遠野なぎこさんの母親は逆に罰を与えていました。
大人になった今でも、遠野なぎこさんは人前で緊張したり声が出なくなったりすると、母親の舌打ちの音が頭の中で響くと語っています。
④父親による車内でのダッシュボード暴力

家庭環境が悪化し、精神的に不安定だった遠野なぎこさんは、朝になるとお腹や頭が痛くなり、学校に行きたくないと泣き叫ぶようになっていました。
ある朝、「学校に行きたくない」と訴える遠野なぎこさんを、父親は問答無用で車の助手席に押し込みました。
抵抗する娘を力ずくで車に押し込んだ父親は、「お前は心が弱すぎる」と怒鳴りながら、遠野なぎこさんの頭を車のダッシュボードに何度も何度も打ち付けるという、極めて危険で残酷な暴力を振るいました。
さらにこの暴力は車内だけで終わりませんでした。

父親は泣いている遠野なぎこさんを車から引きずり出し、既に授業が始まって誰もいない学校の廊下を、泣いて抵抗する娘を引きずり回しながら歩来ました。
これは完全に公然とした児童虐待でした。
学校という場所に対する恐怖心も植え付け、その後の不登校傾向にもつながりました。
⑤炊飯器にカビが生える育児放棄事件

小学校低学年の時に起こった、完全な育児放棄事件です。
母親と他の兄弟が青森の実家に帰ることになった際、なぜか遠野なぎこさんだけが一人で家に残されることになりました。
母親は「お前は留守番をしていなさい」と言い残して出かけ、幼い遠野なぎこさんは一人ぼっちで家に取り残されたのです。
最初の数日は、冷蔵庫にあった残り物を食べて過ごしていました。
しかし日が経つにつれて食べ物は底をつき、小学生の遠野なぎこさんには買い物に行くお金も与えられていませんでした。

空腹に耐えながら、炊飯器に残っていた古いご飯を食べようとしたところ、そこには緑色のカビがびっしりと生えていたのです。
この異常事態が続く中、遠野なぎこさんは学校にも行けない状態になっていました。
心配した同級生の母親(近所のおばさん)が、学校に来ない遠野なぎこさんを案じて自宅を訪れたところ、やせ細って衰弱した遠野さんを発見。

「どのくらい一人でいたの?」と聞かれても、幼い遠野なぎこさんには正確な日数もわからない状態でした。
発見された時の遠野なぎこさんは、空腹と孤独で心身ともに限界状態にあり、近所の人の通報で事態が明るみに出ました。
母親が他の子供たちには愛情を注ぎながら、遠野なぎこさんだけを完全に見捨てていたようです。
小学校低学年の子供を一人で放置し、食べ物も与えずに放棄するという行為は、明らかな犯罪行為です。
この体験は、遠野なぎこさんに深い不安を植え付け、大人になってからの人間関係にも大きな影響を与えています。
⑥小学生からのヤングケアラー生活

3歳下の弟、5歳下の妹、そして後に生まれた12歳下の異父妹の面倒を見ることが、長女としての「当然の義務」として課せられていたのです。
毎朝、遠野なぎこさんは誰よりも早く起きて朝食の準備をしていました。
弟妹のお弁当作り、着替えの世話、保育園や幼稚園への送り迎えまで、全てが彼女の仕事でした。

12歳下の妹については、おんぶして保育園まで送り迎えすることが日課となっており、まだ小学生だった遠野なぎこさんにとって体力的にも大きな負担でした。
母親は恋愛や仕事に夢中で家を空けることが多く、家事も育児も全て遠野なぎこさんに丸投げしていました。
掃除、洗濯、料理、買い物まで、一人でこなさなければならない日々が続き、同級生が遊んでいる時間も、遠野なぎこさんは家族の世話に追われていました。
16歳で一人暮らしを始めた後も、この責任から解放されることは無かったそうです。
なんと妹を自分のアパートから小学校に通わせるという状況が続いたのです。

母親は「お姉ちゃんなんだから当然でしょ」という態度で、遠野なぎこさんの学業や芸能活動よりも、弟妹の世話を優先させていました。
このヤングケアラーとしての生活は、遠野なぎこさんから普通の子供時代を奪いました。
友達と遊ぶ時間も、自分のための時間も全くない日々の中で、彼女は「お母さん役」を演じ続けることを強要されていたのです。
この体験は、大人になってからの「完璧でなければならない」という強迫観念にもつながっています。
⑦中学生に性的な画像を見せる

母親が複数の男性と不倫関係にあった時期、その相手の性的な画像を娘に見せるという、常識では考えられない行為を日常的に行っていたのです。
「びっくりします。怖いし、気持ち悪い。だってこちらは子供だから何を見せられているかわからないんです。何、これ?この状態と思って」と当時を振り返る遠野なぎこさん。
しかし母親は、娘が困惑していることなど全く意に介さず、「すごいね」という感想を強要していました。
「『すごいね』と言わないと機嫌を損ねるから、そう言わなければいけない」という状況に追い込まれていたようです。

さらに母親の異常行為はエスカレートし、弟に対しても不適切な行為を強要していました。
裸になって股の部分を見せるなどの行為を「ふざけている」として強制し、遠野なぎこさんには「吐き気がした」が笑って見ていることを強要していました。
この光景を見せられた遠野なぎこさんは、「本当に気持ち悪くて吐き気がした」と語っています。
これらの行為は明らかに性的虐待であり、成長期の子供の健全な性的発達を阻害する深刻な問題です。
母親は自分の性的な関係を子供たちに見せることで、歪んだ支配欲を満たしていたと考えられます。
⑧母の不倫騒動で大人の対応を強制された

その日、母親は不在で、家には遠野なぎこさんと幼い弟妹だけがいました。
突然インターホンが鳴り響き、女性の怒りに満ちた声が響きました。
「ちょっと!いるのはわかってんのよ!あの女を出しなさいよ!」 子供たちだけの家に、見知らぬ大人の女性が怒鳴り込んできたのです。

しかし、その女性の怒鳴り声は近所に響くほど大きく、このままでは騒ぎがさらに大きくなると判断した遠野なぎこさんは、13歳という幼い年齢でありながら、大人の対応をせざるを得ませんでした。
「母はいません、帰ってください、家族の前に現れないでください」 震え声で必死に伝える13歳の遠野なぎこさん。
本来であれば、このような大人のトラブルから子供を守るのが親の責任ですが、母親は自分の行為の責任を幼い娘に押し付けていたのです。
また、この出来事は近所の人々にも知られることとなり、遠野なぎこさんは学校でも白い目で見られるようになりました。
母親の行為の責任を、罪のない子供が背負わされるという理不尽さは本当にガッカリしますね…。
⑨「吐けば太らない」と教えられた摂食障害の始まり

15歳当時の遠野なぎこさんは健康的な体型で、特に体重を気にする必要もない状態でした。
しかし、母親は突然娘に向かって「吐けば太らないのよ」と教えたのです。
「当時は健康的な体型だったのに、母から『吐けば太らないのよ』と教えられて」と振り返る遠野なぎこさん。
母親は具体的な方法まで指導しました。
「吐きやすい食材は指を突っ込んでトイレで吐きなさい」という、異常で危険な行為を娘に強要したのです。

なぜ母親がこのような指導をしたのか、明確な理由はわかりません。
しかし、自分自身も若い頃から体型にコンプレックスを抱えていた母親が、娘に対して歪んだ美意識を押し付けたと考えられます。
また、芸能界で活動していた遠野なぎこさんに対する、母親なりの「アドバイス」だったのかもしれませんが、それは完全に間違った方向性でした。
この「教え」を実行した遠野なぎこさんは、最初は単純に「母親に言われたから」という理由で始めました。
しかし、一度始めてしまうと止めることができなくなり、摂食障害という深刻な病気に発展してしまったのです。

「吐けば太らない」という母親の言葉は、遠野なぎこさんの健康な食生活と体への感覚を完全に破壊しました。
食べることへの罪悪感、体重への異常な執着、自己嫌悪など、摂食障害に伴う様々な症状が現れました。
この病気は30年以上経った現在でも完治しておらず、遠野なぎこさんの人生に大きな影響を与え続けています。
母親から教えられたこの行為は、愛情や思いやりからではなく、支配欲や自分の価値観の押し付けから生まれたものでした。
⑩弟の誕生日プレゼント選びでの失敗とトラウマ

3歳下の弟の誕生日が近づいた時、プレゼントを用意する責任も、なぜか長女である遠野なぎこさんに課せられました。
母親は「お姉ちゃんなんだから、弟のプレゼントを選んであげなさい」と言い、この重要な役割を幼い娘に丸投げしたのです。
小学生の遠野なぎこさんは、限られたお小遣いの中から必死に弟が喜ぶものを選ぼうとしました。
しかし、まだ子供だった遠野さんには、男の子と女の子の好みの違いがよくわからず、結果として弟に女の子っぽいプレゼントを選んでしまったのです。

具体的には、色使いやデザインが女の子向けのアイテムだったと考えられます。
誕生日当日、弟は遠野なぎこさんからのプレゼントを嬉しそうに受け取りました。
しかし、そのプレゼントを学校に持参した弟は、同級生から「それ女の子のものじゃない?」とからかわれて帰ってきたのです。
弟は泣きそうになりながら帰宅し、遠野なぎこさんに「学校でからかわれちゃった」と報告しました。

この時の弟の反応が、遠野なぎこさんの心に深い傷を残しました。
「『からかわれた?』と聞くと、『大丈夫だよ』と笑って答えたのが今でもトラウマです」と語る遠野なぎこさん。
弟は姉を気遣って、自分の悲しさを隠して笑顔を見せたのです。
この出来事で、遠野なぎこさんは自分に対して強い自己嫌悪を抱きました。
「『私ってだめだ、親にはなれない』と悔しかった。今でも思い出すと泣きそうになります」 本来であれば親がすべき役割を押し付けられ、しかもその結果として愛する弟を傷つけてしまったという自責の念は、心に深く刻まれました。
⑪16歳の頃睡眠薬大量服用による自殺未遂

この事件が起こったのは、連続ドラマの撮影前日でした。
当時の遠野なぎこさんは、複数のストレスに苦しめられていました。
家庭では母親からの日常的な虐待が続いており、芸能界では連続ドラマ出演というプレッシャーにさらされていました。
さらに、思春期特有の精神的な不安定さも重なり、16歳の心には重すぎる負担となっていたのです。
撮影前日の夜、これらのストレスが限界を超えた遠野なぎこさんは、睡眠薬を大量に服用しました。

「もう何もかも嫌になった。このまま眠ってしまいたい」という気持ちだったと後に語っています。
幸い、異変に気づいた関係者によって救急搬送され、一命を取り留めました。
この事件を受けて、事務所は遠野なぎこさんの芸能活動を一時中断することを決定しました。
「母親の虐待や連続ドラマでのプレッシャーが重なった結果だった」と、後に遠野なぎこさん自身が分析しています。
この休業期間は約3年間続きました。
⑫中学時代の屋根裏隠れ生活

中学生になった遠野なぎこさんは、家庭でも学校でも居場所を失い、屋根裏部屋に隠れて過ごすという異常な生活を送っていました。
この時期は、母親からの虐待が続く一方で、学校でも深刻ないじめに遭っており、まさに四面楚歌の状態だったのです。
朝、学校に行くふりをして家を出た遠野なぎこさんは、母親が仕事に出かけるのを確認してから、こっそりと家に戻っていました。
そして、家族に見つからないように屋根裏部屋に潜り込み、一日中そこで過ごしていたのです。
「誰もいない家に一人でいて、やっと落ち着けた」と当時を振り返る遠野なぎこさん。
屋根裏部屋は狭くて暗く、決して快適な場所ではありませんでした。

しかし、遠野なぎこさんにとっては、母親の暴力からも学校のいじめからも逃れられる唯一の安全な場所だったのです。
そこでは誰からも怒鳴られることも、殴られることも、嫌がらせを受けることもない静寂な時間を過ごせました。
本来であれば家庭は子供にとって最も安心できる場所であるはずですが、彼女にとって家は恐怖の場所でした。
しかし、家族がいない時間だけは、その恐怖から解放されて一人の時間を持つことができたのです。

「家が安らげる場所ではなく、一人になることで初めて安心できる状況だった」という言葉は、健全な家庭環境で育った人には理解し難い複雑な心境だったということでしょう。
普通の中学生なら友達と遊んだり、部活動に励んだりする時期に、遠野なぎこさんは屋根裏で一人静かに時を過ごすしかありませんでした。
この経験は、遠野なぎこさんに「一人でいることの安心感」を教えました。
大人になってからも、人間関係に疲れた時や精神的に不安定になった時には、一人の時間を大切にする傾向があります。
この屋根裏での体験が教えてくれた、自分を守るための大切な方法だったようです。
⑬18年間の下剤依存

摂食障害の一環として始まった下剤依存は、遠野なぎこさんの人生を18年間にわたって支配し続けました。
「ピンクのお薬」と呼ばれる下剤を、一日に数十錠も服用するという危険な状態が長期間続いていたのです。
この依存症は、15歳で母親から「吐けば太らない」と教えられた摂食障害から発展したものでした。
最初は体重管理のつもりで始めた行為が、やがて止めることのできない強迫的な行動となってしまったのです。
遠野なぎこさんは「食べたら出さなければいけない」という強迫観念に支配され、食事のたびに大量の下剤を服用していました。
長期間の下剤乱用により、腸の機能が正常に働かなくなり、自然な排便ができない状態になっていたのです。
また、体内の電解質バランスが崩れることで、心臓への負担や脱水症状など、生命に関わる危険性もありました。

精神的な面でも、この依存症は遠野なぎこさんを苦しめ続けました。
「薬がないと安心できない」「食べることが怖い」という状態が続き、食事に対する正常な感覚を完全に失っていました。
外出時にも常に下剤を持参し、食事の予定があるときは事前に服用するなど、生活のすべてが薬を中心に回っていたのです。
この状態から抜け出すまでに18年という長い年月を要しました。

現在、この依存症からの脱却を果たした遠野なぎこさんは、「18年間という長い時間を無駄にしてしまった」という後悔と同時に、「やっと普通の食生活に戻れる」という希望を語っています。
これらのエピソードは、一人の人間が成人するまでに受けるには、あまりにも過酷で深刻な内容ばかりです。
遠野なぎこさんはこのような家庭環境でもしっかりと芸能活動も続け、自立されています。

遠野なぎこは家族全員と絶縁状態だった!

遠野なぎこさんは4人きょうだいの長女として生まれました。
3歳下の弟
5歳下の妹
12歳下の異父妹
という構成です。
しかし、この家族の中で遠野なぎこさんだけが虐待の対象となっていました。
他の兄弟は普通に扱われていたため、「なぜ自分だけなのか」という疑問と孤独感を常に抱えていたのです。
母親との最悪な関係性

両親は遠野なぎこさんが小学校5年生の時に離婚し、母親が3人の子供を引き取りました。
その後、母親は児童劇団のスタッフと再婚し、4人目の子供が誕生します。
この再婚時に、遠野なぎこさん以外の兄弟が全員継父の籍に入り、彼女だけが排除されるという決定的な分裂が起こりました。

母親は自身の女優志望の夢を娘に託す一方で、同時に激しい嫉妬心も抱いていたようです。
遠野なぎこさんが芸能界で成功を収めても、母親からの愛情や承認を得ることはありませんでした。
20代後半になると、遠野なぎこさんは母親との関係に完全に疲れ果て、十数年間にわたる絶縁状態に入ります。
父親は完璧なダメ親父だった

小学校5年生の時に両親が離婚した後、父親は家庭に対する責任を完全に放棄しました。
アルコール依存、借金問題、薬物使用などの問題を抱え、子供たちの面倒を一切見ようとしなかったのです。
20歳を過ぎてから、遠野なぎこさんは約15年ぶりに父親を訪ねました。
「あの暴力は私の事を想ってくれていたが故の、愛のある行為だったんじゃないか」と自分なりに解釈しようとしました。

しかし、父親は再び「嘘の連続」「虚言」「虚栄」を繰り返し、遠野なぎこさんと弟を裏切る結果となりました。
現在、遠野なぎこさんは父親の連絡先を全て削除し、完全に絶縁状態となっています。
「今の私の中で父親は、だいぶ”どうでもいい存在”」「憎むエネルギーさえ特に湧かない」と語っています。
兄弟とも疎遠

母親の再婚時に他の兄弟が全員継父の籍に入ったことで、家族からの完全な排除を感じていたのです。
「どれだけ面倒をみてきたと思っているんだよ」という思いから、深い失望と怒りを抱えていました。
しかし、2022年5月に母親が自死したことをきっかけに、状況が変化しました。

3人目の夫の死の翌日に母親が自死し、遺体を発見したのは弟でした。
この悲劇的な出来事を通じて、遠野なぎこさんは弟と再び連絡を取り合うようになります。
現在、遠野なぎこさんは3歳下の弟とだけ良好な関係を維持していますが、他の家族とは依然として疎遠な状態が続いています。

家族全員との絶縁状態は、遠野なぎこさんの精神的な健康に大きな影響を与えました。
摂食障害、うつ病、強迫性障害、醜形恐怖症など、様々な精神的な問題を抱えることになったのです。
摂食障害については30年以上続いており、現在も治療を継続しています。
遠野なぎこに可哀想という声も?




しかし、遠野なぎこさん自身はこうした反応を意外な形で受け止めており、むしろ前向きなメッセージを発信し続けています。
「不幸だと思ったことは一度もない」
「そういう感性があるから芸能界の仕事にも入れたし、『遠野なぎこ』という人になれた」
このように語っていました。

壮絶な体験を自分の個性や才能の源泉として捉える姿勢は、多くの人に勇気を与えています。
また、遠野なぎこさんは「可哀想と言われることよりも、同じような境遇の人に『一人じゃない』と伝えたい」と思っているそうですよ!
遠野なぎこさんは現在、自身の体験を活かして同じような境遇で苦しむ人々への支援活動を行っています。
SNSを通じて「一人じゃない」というメッセージを継続的に発信し、多くの人から感謝の声が寄せられています。
まとめ
今回の記事は、
・遠野なぎこの壮絶な生い立ちエピソード
・遠野なぎこは家族全員と絶縁状態だった!
・遠野なぎこに可哀想という声も?
こちらの内容でまとめました。
遠野なぎこさんの生い立ちには、一人の人間が背負うには重すぎる壮絶なエピソードがありました。
幼少期から続く激しい虐待、完全なネグレクト、ヤングケアラーとしての過重な責任、そして家族全員との絶縁状態など、想像を絶する困難を乗り越えてきたのです。
遠野なぎこさん自身は「不幸だと思ったことは一度もない」と語っています。
壮絶な体験を自分の個性や才能の源泉として捉え、同じような境遇で苦しむ人々に「一人じゃない」というメッセージを送り続けています。
最後までお読みいただきありがとうございます。

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