隙間のない都市
「今の京都は、狂乱の時代ですねぇ。」
生粋の京都人のこぼした一言に、わたしは深く頷いた。
狂って乱れる、とはなんともキツい言葉だが、今の京都には、誰もが強い違和感を覚えてしまう。
コピーアンドペーストされた町家風の宿泊施設、宇治抹茶(本当に宇治抹茶かは定かでない)を使ったスイーツ…それは、「京都らしさ」を表現しているようで表現していない。その上澄みを観光客が期待しているとは思えない。無論、京都の人は歓迎しないだろう。そのチープな京都解釈が蔓延し、誰にとっても居心地の良い街ではなくなってきている。京都は元来、消費される街ではなく、体験を生み望まれる街だ。ゆっくりしに来た京都で、逆に疲れてしまうという滑稽な矛盾を抱えている。
それは、今の京都には隙間が無いせいなのではないかと思う。好きな作家、松山巌氏の著書『建築はほほえむ―目地 継ぎ目 小さき場-』の一節にこのような言葉がある。
浴室のタイル壁には目地(継ぎ目)がある。タイル壁に目地がなかったら、地震が起きればタイルとタイルが直にぶつかり合い、タイルにヒビが入って壁は壊れてしまう。タイルの目地のようなもの、建築用語では「逃げ」と呼ばれる、異なるモノとモノを組み合わせる際に意識的につくる小さな隙間のようなもの、時間と場所の隙間が、人が生きていくためには必要なのだ。
(『建築はほほえむ』より)
まさに、現在の京都は、このような時間と場所の隙間を失ってしまったといえるだろう。
京都らしさとは
では、本来の「京都らしさ」というのはどういうところにあるのだろう。
昨今、いまだかつて無い程に、国内外観光客が京都へ押し寄せている。JR東海の「そうだ 京都、行こう」のポスターに魅了され、まるで京都は日本人の故郷のように認識する人も多い。ただ、「寺を見たい」、「料亭で京料理を食べたい」という単発のアトラクションに惹かれているだけではないはずだ。歴史的背景や伝統工芸だけでなく、斬新な演劇や絶妙に古さを活かした町家カフェ、寺の横にクラブが並列していたりと、新旧の魅力が入り混ざり、何度訪れても飽きない重層性とチャンネルの多元性に、ひとは惹かれてしまうのではないだろうか。
はじめて京都に訪れた修学旅行のタクシー移動では、点でしか見えなかったものが、大人になって幾度も足を運ぶことで、シーンを味わい、面として認識することでハマる理由のひとつだろう。一見、寺社仏閣や芸舞妓のつるんとした華美が過大評価される京都だが、実は質感のある猥雑さこそに魅力がある。私はそう考える。
東京からのおひとりさま女子旅が多いのも納得する。よく、街なかでもそのような人に遭遇する。先日も、カフェで店主に、「毎年この時期に京都に来て、ここのカフェに来るのが楽しみにしているんです」と話しかけている人に会った。彼女らは、東京のせわしない日常から抜け出し、奥行きのある京都という湯ぶねに身を委ねたくなるのだろう。
哲学者であり京都人である鷲田清一氏の著書、『京都の平熱』にもこう記されている。
京都という街には、こうした世界が口を開けているところが、まだたっぷりある。「あっち」の世界へ通じている孔が、まだいっぱいある。法悦の世界(寺社仏閣)、推論の世界(大学)、陶酔の世界(花街)がそうだ。あるいは、別の生き方を選ぶきっかけになるところも、人生の避難所も、探せばいっぱいある。みずからの存在理由を怪しんでいるひとが、ここだったら認められるかも、と思えるような場所が。
(『京都の平熱』より)
「東大が秀才、京大が天才か変人」と言われるのも、納得の説だ。
外の文化人材
一方で、京都の文化をつくってきたのは、何代も続く生粋の京都人だけではなく、
一時期でも京都に関わることを決めた外の人だということも記しておきたい。学生をはじめ、京都は昔から継続して、他を受け入れる寛容な街だった。その新陳代謝のおかげで、錆びない媚びない街へと成熟していった。今でも、大学の先生やデザイナー、建築をつくる人や本をつくる人、店をつくる人。多くの人が京都に携わり、粛々と新しい文化を育んでいる。
私自身、結婚を機に現在二拠点生活を送っているのだが、私に限らず、京都+どこか(首都圏)という二拠点生活へとシフトし始めてきている。特に、都市環境がそうさせるのだが、仕事がら京都に頻繁に通う人には、大学・研究者、編集・出版関係、建築やデザイン関係、伝統工芸に関わる人など、クリエイティブ層に人の偏りがある。こうした定期的に京都に通うクリエイティブ層はとりわけ、外界と比較できるため、前述した京都の現況に冷静に不満を抱いている。この人たちは、京都の未来に必要な文化人材といえるので、大事にしなければならない。
シェア別荘構想
そこで、京都につくるもうひとつの居場所「シェア別荘」を提案したい。
シェア別荘は、京都の、二拠点生活者のための会員制のサロンだ。せわしない昨今の京都のなかに、余白ある空間をつくろうというわけだ。シェア別荘構想としては、数年前から企画書を忍ばせていたのだが、縁あって、建物とオーナーに巡り合うことができた。
元々、外の人を受け入れてきたこの街に、再び、京都に大切な外の人を受け入れ堪能してもらう場を変換できないかと考えた。しかも、二拠点生活のクリエイティブ層にとって利用価値は高い。
第一に、彼らは、静かに長時間、広い机に資料を広げて仕事をできる環境を求めている。いつも混んでいて、席が空いている保証がないコーヒーショップでは、不便極まりない。だからといって、コワーキングスペースは、受付の手続きがどうも煩わしく、会員でなければ居心地も悪い。できれば、重い書類も置いておける場所があれば最高だ。
泊まる場所も、今の京都は不本意にバカ高い。ビジネスホテルであっても繁忙期は2~3万円かかったりする。観光シーズンに配慮できない予定なのに、ホテルは数か月前からとらないといけないし、予約もいちいち面倒だ。定宿で使うとなると、金額をかけるわけにもいかず味気ない部屋になってしまう。
そして何より、飲みたいと思える人と飲める環境。これが重要だったりする。二拠点で生活すると、いついるのか分かりづらいので、全く飲みに誘われなくなる。だからといって、多忙な仲間にこちらから誘うのも気が引け、いつの間にか孤立してしまう(実体験に基づく)。この歳になって積極的に新しい友達をつくる気も持てないが、気晴らしに飲みに行ける気の合う人がいれば、京都の生活が一段階アップしそうだ。仕事の話に花が咲けば、一緒に協業できることもあるかもしれない。東京の方が人は多いはずが、実は、京都の方が意外と会いたかった人とじっくり語れたりする。
それはまるで、京都の街角に昔からあったサロンのように。ジャズの流れる喫茶店や老舗バー、はたまた画廊が、作家や画家のサロン、つまり社交場の機能を果たしていた。そんな旧来の古き良き京都がもっていた文化サロンを、現代なりの形で、せめてここだけではひっそりと育てたいと願う。